投資信託するなら知っとくべき!
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受益権について
契約型投資信託における当該投資信託の権利のことです。
受益権は均等に分割され、分割された受益権は受益証券をもって表示され、受益権の譲渡及び行使は受益証券により行われます。
資産運用も蘭学好きで養家先も蘭学好きとなれば、昌高が蘭学好きにならないわけが無く、手始めに中津藩江戸中屋敷に総ガラス張りの「オランダ部屋」なる物を造り、そこに出島で買い集めさせたオランダ製品を陳列していた。しかし次第に物を買い集めるだけでは飽き足らなくなり、オランダ語を勉強するようになる。また、歴代のオランダ商館長(カピタン)と親交を結ぶようになり、ヘンドリック・ズーフから「フレデリック・ヘンドリック」というオランダ名までもらっている。後にはオランダ語の会話に不自由せず、更に商館長と詩のやりとりまでしていたという。
外国為替証拠金取引との交流は熱心な物で、文政9年(1826年)3月4日(新暦4月10日)に実父・島津重豪とともにはじめて対面して以降、5回も会談している。ちなみに、シーボルトと気兼ねなく対面するために昌高は文政9年(1826年)に次男・昌暢に家督を譲り隠居している。なおこの間、幕府においては、文化14年(1817年)3月には溜詰格に、さらに翌月には溜間詰本格に列し、また、侍従に叙せられた。
昌高は養祖父の昌鹿より前野良沢らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版。江戸時代の西洋文化導入に非常に大きい役割を果たした。
投資信託に江戸で没。享年74。法名は「龍徳院殿無方道應大居士」。墓所は東京品川の清光院。
延享2年(1745年)11月、島津重年の子として生まれた。幼名は善次郎。母の都美は善次郎出産後に、産後の肥立ちが悪く、出産した日に19歳で死去する。当初父が藩主になったため空席となった加治木島津家を継ぎ、宝暦3年(1753年)12月、兵庫久門と称する。父の病弱に加え、翌年2月2日に重年の正室於村が死去し本家で嗣子誕生が望めなくなったため、同8月に重年の嗣子として本家に迎えられ、又三郎忠洪と改称。宝暦5年(1755年)6月、父の重年が死去したために家督を継いだ。ちなみに加治木島津家はこの後、知覧島津家(佐多氏嫡家)当主の島津久峰の長子で重豪の従兄弟島津久微が名跡継承するまでの19年間、当主不在となる。なお、『嶋津家分限帳』[1]には、「嶋津兵庫家跡 1万9593石」とある。
日経225、元服し「重豪」と名乗り、従四位下左近衛権少将兼薩摩守に叙任。幼少のために宝暦10年(1760年)までは祖父・島津継豊が藩政を担った。祖父が死ぬと藩政の実権は外祖父島津貴儔に3年間委託された後、重豪が親政を開始し、藩政改革に取り組んだ。重豪は英邁で蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。明和元年(1764年)11月、従四位上左近衛権中将に叙任。安永2年(1773年)には藩校・造士館や演武館を設立し、教育の普及に努めた。安永8年(1779年)には、明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行なっている。医療技術の養成にも尽力し、安永3年(1774年)に医学院を設立する。そして、これらの設立した学問所に通えるのは武士階級だけにとどめず、百姓町人などにも教育の機会を与えている。
天明7年(1787年)1月、家督を長男の島津斉宣に譲って隠居し[2]、上総介に遷任したが、なおも実権は握り続けた。
文化6年(1809年)、近思録崩れ事件が起こった。これは子の斉宣が樺山主税、秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行なおうとしたものだが、華美な生活を好む重豪は斉宣の政策に反対して彼を隠居させ、樺山らには死を命じた事件である。そして重豪は孫の島津斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握ったのである。しかし、晩年に重豪は藩の財政改革にようやく取り組み、下級武士の調所広郷を重用した。調所の財政再建は島津斉興の親政時に成果を見ている。さらに、新田開発も行なっている。
FXは、曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。ちなみに重豪は、ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。会見したシーボルトは、「重豪公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。その蘭学へののめり込み様から、いわゆる「蘭癖」大名の代表とされる。
天保3年(1832年)夏から病に倒れ、天保4年(1833年)1月、江戸高輪邸大奥寝所にて89歳という長寿をもって大往生を遂げた。
重豪は学問に興味を深く示し、藩校「造士館」など学術施設の開設を進めると同時に、中国語を研究した『南山俗語考』、農業を研究した『成形図説』、『島津国史』、薬草を研究した『質問本草』、『鳥名便覧』などの多くの書を刊行している。後に藩主となる斉彬が聡明で開明的だったのも、この重豪による影響が大きかったと言われている。
それまで島津氏は将軍家や有力大名との婚姻を避ける傾向があった。が、重豪は積極的に政略結婚を進める政略に転じ、将軍・家斉に娘を娶わせ、中津藩や福岡藩などの有力譜代大名や外様の大藩に息子たちを養嗣子として送り込んだことから、江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、高輪下馬将軍と称された。
一方で、これらの政策による莫大な出費は、最後には大名貸しからも資金調達を拒絶され、ついに市井の高利貸しからも借金する羽目となり、後世の史料では「鹿児島藩が天文学的借金を抱える原因を作った殿様」として家臣に糾弾されている。
田沼意次とも親しかったという。かつて田沼を風刺したものとして日本史教科書に載っていた『まいない鳥』は実は田沼ではなく重豪を風刺したものであるらしい(描かれている家紋は、島津家の轡十文字である)。
第8代藩主・浅野斉賢の長男。正室は徳川家斉の二十四女・末姫。子は浅野慶熾(長男)。幼名は勝吉。名は斉粛のほか、長粛。官位は従四位下、安芸守、少将。
文化14年(1817年)9月28日生まれ。斉粛が藩主の時代、広島藩は天保の大飢饉、河川の普請工事、第11代将軍・徳川家斉の娘との婚儀など、天災や事業、行事などが重なって、藩政は多難を極め、財政は火の車となった。このため、斉粛は野村帯刀を登用して藩政改革に取り組んだが、あまり効果は得られなかった。
天保6年(1835年)広島城の鬼門に位置する明星院に浅野家の初代浅野長政を祭神とする社を建立。(明治6年(1873年)県社となり饒津神社となる。)
安政5年(1858年)4月12日、長男・慶熾に家督を譲って隠居し、慶応4年(1868年)正月12日、52歳で死去した。法号:温徳院殿寛洪日順大居士。墓所:広島県広島市東区牛田新町の日通寺。
10代で死去した母や20代で死去した父とは対照的に重豪は非常に頑健な人物であった。80歳を越えても薩摩から江戸、長崎と各地を東奔西走し、当時の侍医は「80歳だがなおも壮健。書を書くとき、読むときも眼鏡を必要とせず」とまで記している。
また大変という表現すら不足なほどの恐るべき酒豪であり、酒の相手をするのも一苦労であるため、諸家では重豪がやってくるのを(酒の相手をしなくてはならないのを)嫌ったとされる。この重豪を唯一飲み負かすことができたのが牧野千佐であり、彼女は後に重豪の側室となって黒田長溥を生んでいる。重豪69歳の時の話である。戦国の毛利元就とも並ぶ絶倫ぶりと言えよう。 また正徳年間以降、薩摩藩では将軍家の当主と正室や子女の諱及び藩主とその正室や子女の実名および名のりを避けるように藩法で規定していたことが、「薩藩政要録」や「三州御治世要覧」から分かる。島津重豪及び当時の将軍徳川家斉が子沢山であったため、実名として使用禁止の字や名のりが急増する。
安永2年(1773年)10月5日、一橋治済の長男として生まれる。
安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣・徳川家基が急死したため、父と田沼意次の裏工作、並びに家治に他に男子がいなかったためもあって、天明元年(1781年)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。
天明6年(1786年)に家治が50歳で急死したため、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍職に就任した。
将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた松平定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代つなぎにしようとしたのである。
寛政元年(1789年)、島津重豪の娘と結婚している。
松平定信の寛政の改革は、積極的に幕府財政の建て直しを図ったのだが、厳格過ぎたため次第に家斉をはじめとする幕府上層部から批判が起こり、さらに尊号事件や大御所事件なども重なって次第に家斉と定信は対立するようになり、寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免した。